二十二代庄之助一代記〈第十四回〉

泉   林 八


太平洋戦争ついに終結
 明治神宮の外苑相撲場で、晴天七日間行うことになっていた二十年夏場所は、前述のとおり、空襲のために中止になってしまった。

 そこでこんどは、大破損した両国国技館に場所を移し、六月七日から、屋内とはいっても晴天七日間、非公開で行われた。

 「食べるものさえなにもないのに、相撲どころじゃあるまい」という声も、内外で少なくはなかったが、財団法人相撲協会としては、施行規則である「力士の技量を審査するための相撲競技(本場所)を実施する」という法人の使命を続行すべく、なにがなんでも本場所を打たなくてはならない。

 傷病将兵らを招待、あとは関係者、報道陣だけを集めて、ひっそりと開催したわけである。
 これはいうまでもなく、後楽園のとき同様十両以上で、幕下以下は、焼けあとにつくられた春日野部屋の仮設けいこ土俵で、六月一日から五日間行われた。

 アメリカ軍の空襲をぬって行われた場所だったため、何日目をいつ何時から行うといった協会の指令がとどかないこともしばしば。

 取組相手がくるまで待たされたり、五日間で終わりと勘違いする力士が出たりして、現在では到底考えられないようなてんやわんやの場所であった。

 この場所初日に相模川を右四つから寄り切った双葉山は、面チョウを理由に二日目から休場、ついにそのまま引退することになった。
 八月六日、広島、同じく九日、長崎と、アメリカ機によって原爆が投下され、十五日にはとうとう終戦の大詔がくだされた。戦争終結とともに、双葉山の時代も完全に終結したことになる。

 当時私は、世田谷の奥沢にいて、正午からの天皇陛下の玉音をお聞きしたが、あのときばかりは、あとからあとから涙が出てきて止まらなかったのを、いまもはっきり覚えている。

終戦直後に大相撲開催
 十月はじめ、神田須田町の家へ戻った。
 ご主人にごあいさつして帰るのが本当なのだが、いつまで待っても帰京されないので、あいさつをあとまわしにして、親せきの人たちにお礼をいい、回してもらったトラックに、荷物といっしょに乗って、焼け野が原にポツンと残ったわが家へ帰ったのだった。

 終戦と同時に、鈴木貫太郎内閣は総辞職し、かわって東久邇宮内閣が誕生。
 体育スポーツ関係は、現在は文部省管轄だが、当時は厚生省の監督下にあり、ときの厚生大臣松村謙三氏が、就任間もなく、次のような声明を発表した。

 「わが国民は、長い戦争のために、肉体、精神とも、疲労こんぱいしている。この際、国民の士気を鼓舞するためにはスポーツがもっともてっとり早い。
 まず、相撲、野球テニスなどを奨励していく」
 この声明が力となり、大相撲の戦後第一回興行は、終戦の日から二か月ちょっとしかたっていない十一月、はやくも開催の運びとなった。

 二所ノ関一門は兵庫県尼崎、高砂一門は名古屋、双葉山道場は九州大宰府、立浪一門は山形県鶴岡などヘ疎開して、勤労奉仕などに従事していたが、本場所再開を知った力士たちは、勤労奉仕先やら郷里から、次第次第に両国かいわいに集まってきた。

 食料難のため、会員がガリガリにやせ、二十貫(七五キロ)を切る力士も少なくないといった状態で、着ている服はだぶだぶ、ハダの色つやも決していいとはいえなかったが、思ったより早く本場所が行われる運びになったことで、精神的にはみんな大いに張り切っていた。

 そうした矢先の十一月一日に、千田川理事が亡くなった。この人は、私同様、元大阪の幕内行司で、年齢はほとんど同じ、行司としては私のほうがやや先輩で、大阪時代も仲良くしていたので、相当なショックだった。

 行司名は木村喜三郎。私が大正十二年に東京の行司になろうと決心したとき、一緒に行こうとしてがん張っていたが、なかなかうまくいかないようで「私もあとからいくからな」と、私が上京するときには、大阪駅まで見おくりにきてくれた。

 その後、大関小染川の千田川が廃業したあと、千田川を襲名して行司をやめ、大阪の頭取として活躍していたが、大正末の東西合併のとき、東京へやってきた。

 頭がよく、相撲字はとくに古今の名人といわれ、番付をずっと書き、昭和十五年から、三期(六年)連続して理事をつとめたが、行司出身者としては非常に若い、五十そこそこで亡くなったのは、大いに惜しまれた。

この場所限り土俵16尺
 十一月五日、秋場所の新番付が発表になった。
 期待の大物東富士が新大関、備州山が新関脇、二一四センチの超巨漢不動岩が新小結、そして未来の横綱が確実とさえいわれた千代ノ山が新入幕。

 人気の湧く条件はそろっていたのだが、いまと違ってマスコミがあおることもなく、双葉山時代や、のちの栃若時代などとくらべたら、まことにひっそりしたものだった。

 アメリカ進駐軍のマッカーサー司令長官命令により、映画の時代劇は軍国主義につながるおそれがあるとして、製作を禁止され、相撲では、手数入り用の太刀も竹光に変更された。

 協会では、アメリカ人にも相撲を理解してもらわなくてはと、いろいろ工夫をこらした。
 外人からみれば長すぎる仕切り制限時間を、幕内五分、十両四分、幕下以下三分に短縮、短すぎる競技時間が長くなるようにと、

 土俵の広さを十五尺(四メートル五四五)から十六尺(四メートル八四八)に拡大(もっとも、力士会の意見により、この場所限り。翌場所から十五尺に戻した)。

 また、初日の前々日には進駐軍慰安大相撲を行うなど、アメリカ軍にはかなり気をつかったものだった。

 進駐軍慰安大相撲の翌日が土俵祭の日であるが、私もこのときは、土俵祭の口上に関して、いろいろ考えたり悩んだりした。

神がかりすぎた土俵祭
 土俵祭は行司がつとめる。土俵中央にあらかじめ、七本の幣を安置。七本のうち正面の三本は造化の三神(天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)。東西の二本ずつは四季の神の意。司祭は立行司一人、脇行司二人の三人。

 進行がかり行司の合図により、まず脇行司の一人が土俵場にあがって「清祓の祝詞」を朗読したあと、祭主である立行司が、中折烏帽子に直垂という神官のような装束で土俵中央に座し、祭文を朗読するのだが、戦争中まではだいたい次のような内容だった。

 「わが朝の相撲は、神代より始まり、天地和合の理を基とせり。
 そのいわれは天地いまだ分たず、ただ一理のみにして色形もなし。
 それよりほのかに非を含み、皇明 かなるもの、なびきて天となる。
 重く汚れたるもの、とどこおりて地となる。
 そのうちより隆臨まします神あり。

 これを第一、クニノトコダチノミコトと申し奉るなり、第二、クニサツチノミコト、
 第三、トヨケヌノミコト、第四、オオトミチオオトマベノミコト、
 第五、ウエジニスエシニノミコト、第六、オモタルカシコネノミコト、
 第七、イザナギイザナミノミコト。
 これを天神七代と申し奉るなり。

 また、地神五代と申し奉るは、アマテラスオオミカミ、次にアメノオシホミミノミコト、
 次にニニギノミコト、次にヒコホホデミノミコト、
 次にウガヤフキアエズノミコト、これを地神五代と申し奉るなり。

 ひとつのきざしありて形となる。形なりて前後左右を東西南北、これを方という。その中にて勝負を決するがゆえに、いまはじめて方屋といい名づけたり。

 ここに神たちを招ぎ奉り坐せ奉りてかしこみ申さく、ちはやふる神代の昔より、中今はさらに申さず、いや遠永に
 栄え行くべき相撲の道はしも、敏き心に術をつくして猛き心に力をくらべて、勝ち負けを争い、人の心を勇ましむる、神代ながらの国技なれば、

 今年十一月十五日のあしたのいく日よりはじめて十日の間、このところに挙し行わんとするに先立ちて、
 御祭り仕え奉りて大神たちの高き尊き御恩頼によりて執り行い成し努むる事業に御霊幸わい給いて、土俵の内外日に異につつしみ禍ごとなく、いやすすめ給いて夜の守り日の守りに幸わい給えと、乞い祈り奉らくを、平らけく守らけく諾い聞しめせと、かしこみかしこみまおす」

 こういった、多分に神がかり的なものであった。

新式祭文と片屋開き口上
 アメリカ人たちは、もちろん相撲というものがどういうものか、なにも知らないだろう。当然質問もあるだろうが、
 もし土俵祭をみにきて「クニノトコダチノミコトと相撲はどういう関係があるのか」などと聞かれたりしたら、こちらも返答のしようがない。

 相撲などという神がかりなぶっそうなものはなくしてしまったほうがよかろう、などといわれたら大変だ。なんとしてでもここでスポーツとして認めてもらわなくてはならない。

 相撲は健全なスポーツであるということを認めてもらい、相撲を盛んにし、将来アメリカ巡業ができるようにするにはどうしたらいいだろう。

 当時の庄之助さん(二十一代)は、こういったことは苦手で、私にすべてをまかせるからなんとかうまくやってくれということで、私は、いろいろな文献をあさり、神がかりをなくし、故実をそこなわぬようにと、ない知恵をしぼって、随分真剣に考えたものだった。

 そして「この齋庭に、わが相撲の道の守り神と持齋く戸隠の大神、鹿島の大神、野見宿禰の命たちを、招ぎ奉り坐せ奉りてかしこみ申さく、ちはやふる……(あとは同じ)」
 ということにした。

 戸隠の大神は、天岩戸をあけたというアメノタヂカラオノミコトであり、鹿島の大神は、国ゆずり相撲でタケミナカタノカミに勝ったタケミカヅチノカミであるから、相勝にも大いに関係があり、もし質問をうけてもこれならだいじょうぶである。

 祭文に引きつづき、片屋開きの口上となるが、これも非常に長く、難解で、神がかり的だったのを、次のようにかえた。
 これはなにも、私があみ出したものでもなんでもなく、十九代吉田追風の、寛政三年 (一七九一)六月十一日、将軍家斎上覧相撲のときの片屋開口式の故実を引っ張り出してきて、ほんの少し現代風に改めただけ。
 つまり、寛政の昔から、以後次第に神がかりがひどくなり、大げさになってきたものを、もとへ戻したことになる。

 「天地開けはじめてより陰陽にわかり、清く明らかなるものは陽にして上にあり、これを勝ちと名づく。重くにごれるものは陰にして下にあり、これを負けと名づく。

 勝負の道理は自然のことわりにして、これをなすものは人なり。清くいさぎよきところに柱を立て、五穀就成の祭りごとなれば、俵をもって関所をかまえ、その中にて勝負を決する家なれば、いまはじめて方屋といい名づくるなり」

 と………こういうふうにして、その場所の土俵祭の祭主をつとめたのであった。
 この土俵祭の方式は、その後あまり変わっていないのではないかと思う。

両国国技館接収さる!
 この場所は、横綱羽黒山と新大関東富士が優勝を争い、八日間に両雄対戦して、羽黒山が東富士をうっちゃりでくだして全勝優勝。期待の千代ノ山も、上位と対戦しなかったが十戦全勝の好成績をあげた。
 両国駅から国技館までの焼けあとには、青空の下、ヤミ市がずらりと並び、関取衆がそこで買物をする姿もみられた。
 力士にとって、関係者にとって、本場所が生命であることはいうまでもない。

 いくら戦争が激化しても、戦争に敗れても、なんとか年に二回の本場所だけは、ずっと開催してきた。とくに、敗戦直後の二十年秋場所を無事に行うことができたのは、私たちにとってなにものにもかえがたい大きな喜びであった。

 しかし、終戦の年の暮れもおし迫った十二月二十六日、占領軍のために国技館が接収されてしまった。
 窓ガラスは破れていたとはいえ、両国の昔ながらの大鉄さんの国技館に本拠を戻し、さていよいよ改装修理して、二十一年春場所を迎えようというときだっただけに、相撲協会関係者のショックは実に大きいものであった。

 もちろん、春場所開催など思いもおよばなかったし、夏場所も中止のやむなきにいたった。こうなっては、地方巡業で食いつなぐしかないが、四月には京都で晴天十日、つづいては六月はじめに靖国神社相撲場で五日、さらに六月末には大阪阿倍野で晴天十一日間の地方大場所を開いたが、いずれも本場所ではない。

 相撲協会では、出羽海相談役(元小結両国梶之助)藤島理事長(元横綱常ノ花、のち出羽海)をはじめ幹部連中が、本場所再開に懸命だった。
 この間、両国国技館は、その名もメモリアル・ホールと改められ、アメリカ軍の室内体育館に改装されつつあった。
 外部はクリーム色に、内部は真っ白に塗りかえられ、中央天井からは、ジュラルミン製の移動照明機がつり下げられ、土俵さじきなどはもちろん一掃され、床は一面セメントで固められ、相撲場とは似ても似つかぬものにかわった。

 中央には板張りのコートがあり、バスケットボールやバレーボール、ボクシングもできる。冬には氷が張られ、スケート場にもなるらしい。

 とにかく協会としては、野球が非常に盛んになって後楽園を借りることなど思いもよらなくなり、進駐軍からメモリアル・ホールを借り受けないことには本場所が開けられないということで、

 必死に交渉した結果、十月二十五日番付発表、十一月六日から十八日までの晴雨にかかわらず十三日間、メモリアル・ホールで秋場所を開催することを発表できるところまでこぎつけた。

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読売新聞社 大相撲 1980年1月九州場所総決算号


さし絵 伊藤豊一画