二十二代庄之助一代記〈第十九回〉

泉   林八


32〜34年は行司試練の年
 相撲人気は、栃錦、若乃花を中心にしてすごいばかりに盛り上がっていった。

 三十二年十一月に福岡本場所がはじまり、翌三十三年初場所後に若乃花が横綱に昇進、同年春場所など、横綱千代の山、栃錦、若乃花、大関朝汐、関脇琴ケ浜の〃五強〃が、十三日目を終わって十一勝二敗の相星で並ぶという空前の混戦でわかせた。

 同年七月には名古屋場所が発足、ここに年六場所制が定着。大相撲界は順風満帆、いうことなしの好景気だったが、私たち行司にとって、三十二〜三十四年という年は、まさに試練の時。

 とくに私は、三十二年秋場所初日に交通事故で足を折り、翌三十三年春場所まで休場したこともあり、全くさんざんの時期だったのである。

 私の反対にもかかわらず、行司部屋独立は決定。旧両国国技館の茶屋のあとを改造するにしても、家財道具、炊事用具など、なにからなにまでそろえなければならない。

 なんとか借金をして、ふとんからなにから、三十人ほどの行司が生活するのに最小限必要な道具一式をそろえた。将棋盤や碁盤といった遊び道具も、だれかがどこからか集めてきたようだった。

 もうひとつの問題は、まかないと留守番だ。行司三十人分のめしをつくらなくてはならないし、行司は巡業になると一人もいなくなるので留守番が必要だ。そこで私は美の勝の大将に相談した。

 美の勝というのは、当時、正月のしめかざり、おとりさまのくま手などを売っていた一種の仕事師で、大相撲の大陸(朝鮮〜中国)巡業のときは、五人ほどがちゃんこ番として一行についていって、全員の昼めしの面倒をみていた。

 あとの二食(力士は一食)は旅館で食べるが、昼めしの買い出しから調理一切を、美の勝の五人がつくったものだった。(いまの名古屋のお茶屋・美の勝の前身である)

 美の勝の大将に相談すると、よろしいお世話しましょうといってくれて、すぐに伊藤さん夫妻を紹介してくれた。
 そして、伊藤夫妻と娘さんの三人が、行司部屋に住み込んで、まかない一切と留守番をやってくれるようになった。

 伊藤さんの娘さんは、当時の木村貢、現幕内格行司木村善之輔の奥さんになっている。
 結局、三十二年十二月から改築にかかり、三十三年初場所中に各行司はそれぞれ相撲部屋を出て、引っ越してきた。

行司部屋も両国→蔵前へ
 旧国技館を日大が買い取って講堂にすることが決まったのは、三十三年六月十八日であるが、こうなっては私たちはここを出なくてはならない。
 そこで私も前々から心掛けて家を捜していた。何軒か当たっているうちに、友綱部屋(現在のちゃんこ巴潟)の隣にある旅館(両国二の一八)が広さといい建物といい、
 行司部屋として理想的と考え、一応五百万円で買うことに決め、行司部屋で相談したが、錦島(前木村今朝三)が「そんなところでは狭すぎる。

 一之橋の南側の隅田川寄りにもっと大きな土地がある。そこに大きな部屋を建て、行司にもけいこさせるから立派なけいこ場を設けて盛大にいこうじゃないか」と、カネもないのに、まるで大きな相撲部屋をつくるようなことをいっている。

 こんなことをしているうちに両国のほうもダメになってしまった。
 そこで私は、三十三年名古屋場所を終えると、夏巡業に出発する一行と別れて一人で東京へ帰ってきて、時津風部屋に時津風理事長を訪ねた。

 そして二人で話し合って結局、蔵前国技館の敷地内裏手にあった小屋の中に、行司部屋をつくってもらうことが決まった。

 そのあと、武蔵川理事らと細かい打ち合わせをしたあと、北海道函館の巡業地へ直行したのである。
 蔵前国技館裏手の小屋には、十両支度部屋、割り場、印刷場があり、そこに割り込ませてもらったわけである。

 私の引退後、行司部屋は、蔵前国技館から蔵前橋を渡って左の厩橋寄りに移ったが、その後も伊藤さん夫妻がずーっとまかないをやってくれたようだった。

 しかし、十五年後の四十八年夏場所、行司部屋は解散して各相撲部屋へ戻ることになった。行司が独立して絶対中立の立場で勝敗を裁くという大義名分はともかく、
 行司が資金をつくれない立場にある以上行司部屋は成り立たないという私の考え通り、独立は”元の黙阿弥”、行司の力を一層弱めただけに終わってしまった。

 三十四年一月には庄之助、伊之助両家を年寄名から除くことが決まった。三十二年九月から行司の二枚鑑札が許されなくなったうえ、立行司の年寄もなくなり、行司の立場はますます弱まった。

 昭和はじめには幕内格行司木村宗四郎が入間川取締となり戦後のつい最近でも、二十一代庄之助が立田川理事、三役格行司木村今朝三も錦島理事になったが、こうしたことはもう行司にとって〃夢〃となってしまった。

〃定年〃を申し渡される
 巡業から帰って、行司部屋のこまごました問題がなんとか片づき、やれやれと思った直後……私たちはさらに大きな問題にぶつかった。

 三十三年秋場所初日の数日前、私と、伊之助、正直、鏡山(前先々代式守勘太夫)の四人が協会の理事室へ呼ばれ、武蔵川、楯山、秀の山、枝川の四人から、次のような話を聞いた。

 「相撲がいま経済的にうまくない。幕内、十両の枚数を減らさなくてはならない。それについて行司にも定年制をしくことになった。
 定年は満六十五歳で、実施時期はいまから一年ちょっとあとの三十四年九州場所限り。期限内にやめれば養老金(退職金)立行司百五十万を二百五十万、副立行司百万を二百万、三役格七十五万を百五十万円にする。
 どこの会社でも定年がないところなどほかにないんだから、協力してくれ」

 と…こんなことだった。
 私は全くボーッとしてしまった。ウワサもなにも聞いていない、それこそ、寝耳に水、青天のへきれき。定年という意味さえよく知らないのだから、ピンとくるはずもない。

 とりあえず「行司部屋へ戻ってみんなと相談してみますから、少し考えさせてください」といって帰ってきた。

 定年該当者は、木村庄之助、つまり私が六十八歳、式守伊之助が七十一歳、副立行司木村玉之助が六十七歳、三役格の式守与太夫が六十六歳、木村庄太郎が七十三歳、計五名ということになる。

 行司部屋へ戻ってみんなに相談すると、若い行司は全員が賛成だ。
 「二十年も立行司やっているんだからやめてください」という。

 上位の行司がごそっと五人も抜ければそれだけ上へ上がれるのだから当然といえば当然だが、正直クン(副立行司、五十九歳)までが「親方、若い者のために、気持ちよく道を開いてください」という。

 私の頭は全くこんがらかってしまい、ただもうオロオロするばかりだった。
 行司には昔から定年なんてものはない。

 大相撲界で定年などという言葉は一度もきいたことがなかった。定年でやめさせられることがあろうなど、これっぽっちも考えていなかった。
 もちろん私も、死ぬまでつとめようと思っていたわけではない。行司は、役者と違って死ぬまでできるわけじゃない。

 相撲の動きも昔より早くなったし、まわしがゆるんだら締め直さなくてはならない。
機敏性も腕力も要求されるので、死ぬまで出来るわけはないが、元気で体が動くうちはまだもう少しやって、衰えたなという自覚があったときに、きれいにやめようと思っていた。

 はじめから六十五歳で定年ときまっていたのなら、ずっと前から定年後のことも考えて、いろいろ手を打つこともできたろうが、夢にも考えていなかったのだから、どうしようもない。

 はじめから定年があるとわかっていたのと、急に出来たのではわけが違うと思うのだ。 例えば、国鉄にスト権がないのははじめから決まっている。
 ないとわかって入社してきてさえ、スト権を獲得しようとしてがん張っている。

 私らのはこれと逆で、定年なしと思って勤めていたら急に定年が出来たからやめてくれ…では途方にくれるばかりだ。
 私は定年行司五人中の責任者として大いにうろたえたが、実際にどう行動したらいいのかが皆目わからない。力になってくれる人も思いつかない。

 定年五人のうちでも、庄太郎さんは大阪に料亭と相撲茶屋を持ち、伊之助さんと玉之助さんは楽隠居、行司をやめて生活が困るのは、
 私と与太夫くらいのもので、カネを多くもらえるなら、かえって早くやめたいくらいだという人も出てきた。私を補佐してくれる人もいない。

 とりあえず五人連名で「退職金をもう少し考慮していただきたい」という嘆願書を相撲協会あてに書き、武蔵川理事のところへ持っていったが、脚下された。

定年の四行司で引退相撲
 私に味方してくれる人もなければ、補佐してくれる人もいない。次第に定年制が既定事実のようになっていった。ここまできては私もあきらめざるを得ない。

 そうなると二十二代目の木村庄之助として、このあと一年ほどを立派につとめ、引退の花道を飾らなければと思うようになった。

 立派な行司の型を後世に残すことはもちろんだが、引退相撲のことも考えなくてはならない。私一人で勝手に相撲のことをきめてしまっていいものかどうか、
 考えているうちに、伊之助さんが、平鹿川、七ッ海と三人合同で引退相撲をやることになったというウワサが耳にはいった。

 そのとき私は、伊之助さんに「あんた、引退相撲やるなら、わしに一言ぐらい相談してくれてもよかったのに」と文句をいったが、すでにあとの祭りだった。

 そこで私も、自力でやらなければと、協会へいって出羽海相談役に「引退相撲をやりたいと思いますが…」と持ちかけると「そうかそうか、そりゃ大いにやってくれよ」といってすぐに申し込んでくれて、協会もさっそく受けつけてくれた。

 しかし、そのあとから、玉之助、与太夫、庄太郎もいっしょにやらせてくれという話があり、断るわけにもいかず、結局、行司四人で引退相撲をやることにきまった。

 伊之助・平鹿川・七ッ海の引退相撲は三十五年一月三十日の土曜日、庄之助・玉之助・与太夫・庄太郎の引退相撲は一月三十一日の日曜日に行われた。

 私たちの相撲は日曜日でもあり、はじめは私一人の予定だったせいもあって何人かはお客を断ったくらいで、見物人はいっぱいだった。

 三十四年十月三日に、春日野取締(元横綱栃木山)が、脳血せんのために亡くなった。現役時代の強さについては何度も書いたのではぶくが、出羽海一門の巡業の組長をつとめていたので、私とは巡業ではたいてい同じ旅館に泊まったものだった。

 春日野さんが組長でくると、力士全員がよくけいこするし、雨が降ったりすると、勧進元に気の毒だからと、ギャランティーをいくらかでもまけてやったり、

 こまごまとよく気がつくので〃春日野さんが組長でなければ巡業を買わない〃という勧進元があちこちにいたものだった。
 亡くなった直後に、勲四等瑞宝章が遺贈されたのは、私らにとってもうれしいことだった。

〃松翁〃になりそこなう
 三十四年九州場所の場所前、行司部屋にしていたお寺にいる私あてに、熊本の吉田司家から「松翁を許すことがきまったから受けてもらいたい」という手紙が届いた。

 松翁というのは、前にも述べた通り、歴代庄之助中の抜群の名人にのみ許される尊称で、長い大相撲史上で三人しか許されていない。
 私としては思いもかけない名誉であり、私が松翁に価すると考えたわけでもなかったが、大いに感激、おこがましいけれども、この際お受けしたいという気持ちになった。

 しかし、もし協会の了解をとっていないで、私のために協会と司家がもめるようなことがあってはいけないと、司家ヘ、協会に了承をとりつけているのか問い合わせてみると、まだ協会へいってないから、すぐに申し入れることにするという。

 その後、二十四世司家が私のお寺にやってきた。「庄之助さん、私が書面を持って協会へ行ったのだが、どうもふん囲気が悪いようだ。
 立田川(二十一代庄之助)と秀の山が反対して、うやむやにしてしまう方針のようだ。もしそれっきりになったとしたらあきらめてください」といっていたが、案の定この話は、それきりになった。

 読売「大相撲」の三十四年十二月号に
  九州場所をもって、五人の行司が「定年制」によって、ついに姿を消す。
  庄之助に〃松翁〃を贈るといううわさがあり「協会もなかなか情愛のあることをやる」と、
 筆者など、目頭の熱くなる ような気分にひたったものだが、
 うわさ のままで、立ち消えになってしまった。
 庄之助の無念さが察しられる。(後略 一○四ページ「さじき席」)
  とあるが、その真相は前述のとおりだったのである。

 のちに、故彦山光三さんと「だまってもらっておけばよかった」と話し合ったが、松翁に推挙するという司家からの書状は、いまも大切に保管してある。

 三十四年九州場所の千秋楽をもって、私たち五人は引退した。私は、結びの「栃錦(寄り切り)若乃花」が最後になった。満で六十九歳八か月だった。

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読売新聞社 大相撲 1980年11月号


さし絵 伊藤豊一画